Kotobagari (言葉狩り) is a term used to describe the social policing of negative terms that are prohibited from use.

Summary

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There are situations where the words used by the dominant societal ideology are overly regulated by groups who oppose them, especially those words that relate to countries and discriminated groups. In such cases, these words have been banned from mass communications like television and radio. In such cases where voluntary restraint is used, as for going too far, these words are still used in banter and ridicule, yet they still have their negative connotations.

In situations where discriminatory words are used, all mass communication companies, educational institutions, and governmental groups have banded together to disuse these terms.

In contemporary Japan, so-called discriminatory terms are expressed using other words. "Kotobagari," then, is pointing out these changes, and in situations where the writer refuses to do so, the publisher or broadcasting office or similar company will not publish the sentences. There are examples of lawsuits that arose after publication.

This kotobagari, in the same way as discrimination, situations where the terms were used are largely based on the involved party's personal opinion. Regulation can go too far, or perhaps be unsuitable, and based on this viewpoint, kotobagari can be sometimes be viewed in a negative light.

Putting in other words

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There are terms that can be seen as showing prejudice against people, and these terms have a historic and societal context. Forcing people to use other terms to convey the same meaning can be seen as infringing on a freedom of expression. This problem arises largely in such places of original expression such as literary works.

In these situations, it must be asked if these expressions (graphic depictions are included too) infringe upon human rights and public welfare. So as to carefully handle the situation, new words and unnatural neologisms are created. The sentimental drift of the human rights protection groups turns into sarcasm. Right after these prejudiced terms are criticized, due to kotobagari, the words are simply turned into disused words, and the true state of discrimination becomes unclear, and so the ending of true discrimination becomes a far off thing.

一般的に差別表現は差別の結果生まれるものであり、差別の原因ではない。一見言葉が原因で差別が生まれると思われるときも、基本的には差別感情が先に存在する。その点を看過し、言葉という枝葉末節にこだわるあまり、差別の実態という本質を見失う。すなわち、差別を解消するために代替用語を用いても、差別感情が解消しない限り代替用語自体が差別用語化する可能性がある。代替用語がまた差別用語となる一例として、学校で備品の管理や設備の維持にあたる人への用語問題が挙げられる。「小使いさん」との呼び方は差別的だとして「用務員」と言い換えられた。しかし現在ではその「用務員」も差別的とされるようになり、「校務員」や「管理作業員」といった新造語に置き換える動きがあるが、その呼称の対象に対する意識は変化していないという批判がこれにあたる。用語を用いる側と用いられる側の意識の問題であるだけに、用語の言い換えのみをもって意識の変革を求めることは容易ではない。同様に「かたわ」などを「身体障害者」に言い換えたものの、短縮形の「身障」を含め、既に差別用語化しているのが実情である。これは「障害者」を「障碍者」(国語としては代用文字を元に戻すだけ)、あるいは「障がい者」(単に一部を平仮名にしただけ)に変えようという児戯的な運動では解消できない。次に漫画『北斗の拳』にて主役が太った悪役に発した「豚は屠殺場に行け」が変更され、新版では「ブタはブタ小屋に行け!」「ブタと話す気はない!」との表現になっており、アニメではそれすらもなくなっていた。これは屠殺場が差別用語であるとして、集英社側が変更したものだが、ファンの間では言葉狩りであると抗議するものもいる。

一部の団体には言葉狩りを行うことで差別的な人間を矯正したと自己満足に陥る、あるいは自らの権力欲を満足させているだけであるとの批判もある。

上記のような「言い換えを行っても差別感情を解消することは不可能」とする言い換え否定論に対し、肯定論側の反論として以下のようなものがある。すなわち、発話者に差別感情が無くとも、被差別者の立場に立てば差別用語そのものによって傷つけられる可能性があるというものである。

ただし、ポリティカル・コレクトネスの運動においても、一部に過剰とも言える言い換えが存在することに批判を浴びた経緯があり、それを風刺した『政治的に正しいおとぎ話』のような本がベストセラーになった。

このように、ある語に対する規制が言葉狩りかどうかは当事者の主観に左右される部分が大きく、差別全般についての考察なしに規制という事象のみをとらえて論じることは本質から外れた議論になりかねない。最初から否定的な意味合いを含んでいる言葉狩りという言葉には、すでにその使用によって使用者の立場を明らかにしてしまっていると言うことができる。

Kotobagari as a label

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被差別者による糾弾に対しても「感情的な差別批判」として言葉狩りとすり替えて揶揄する場合などによく使われる。[要出典]

言葉狩りという語の持つイメージは強く、ある団体が人権を擁護するために用語規制を呼びかけても、言葉狩りと決め付けてしまえば先入観を持って見られるようになることが考えられる。

Kotobagari for ideology

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一般に、ある国の体制を認めない場合、メディアにおいてその国の自称する正式な国名を使用せず独自の呼称を使用するなど、言葉の強制的な言い換えがみられる。

このようなイデオロギーによる言葉狩りの例として、1970年代までの旧西独では旧東独のことを「ソ連占領地域」または「中ドイツ」とのみ呼び、「ドイツ民主共和国」という正式名称を使えば共産主義のシンパとして言論界から追放された。日本でも、日中国交正常化まで中華人民共和国のことを「新中国」ないし「中共」と呼称した。また、「北朝鮮」について「朝鮮民主主義人民共和国」の名称が使用されて続けているのと異なり、日中国交正常化以前から「中華民国」政府については日本及び国連でも「国府」または「台湾」と呼ばれたことがあり、現在でも「台湾」の名称が使用され続けている。大韓民国朝鮮民主主義人民共和国は自国を正統とする立場から、相互に相手を「南朝鮮」「北韓」と呼び合っている。

一方で、長い国名を省略するなど、便宜的に省略することも少なくない。一例を挙げれば、朝鮮民主主義人民共和国(英名:Democratic People's Republic of Korea)について、日本では「北朝鮮」、英語圏では「North Korea」、他の言語でも「北の朝鮮」という朝鮮半島における位置関係で示す呼称がまま用いられている。これは報道などに際しての呼称の便宜から長い名称を省略する意図と、大韓民国(英名:Republic of Korea)との混同を避け二者のいずれか明瞭にする意図から主に用いられており、上記したような政治的な意図をもっての言い換えとして用いられることは少ない。同様の理由から、大韓民国についても、英語圏では「South Korea」、他の言語でも「南の朝鮮」という位置関係で示した呼称が用いられることがままある。こうした種類の、悪意や政治的意図を伴わない言い換えや省略についても、結果的に上記のイデオロギーによる言葉狩りの場合と同様に当事国の政治体制を認めないかのごときニュアンスを帯びることから、その対象にされがちな国々はその使用にしばしば難色を示しており、国際連合の会議での発言時などでは、中立的な発言においても公式の場での使用に異議が唱えられることがある。

Character kotobagari

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An example of kotobagari in writing characters is the change from writing kodomo from 子供 to 子ども. See the corresponding article.

See also

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